プロになりきれない主婦う〜さんが綴る、日々のあれこれ。

2015年8月12日水曜日

流れ星の頃

 冲方丁の「天地明察」が映画化されると知ったとき、渋川春海は真っ暗な空を知っている人が演じて欲しいなと思った。光は星以外触れられない、そんな夜空を経験した人がやって欲しいと思ったのだけれど、・・・図書館を守る人だったな。

 唐突に、天文言葉でネットサーフィンをしたくなることがある。
 ようやっとお盆休みに入り、明日から5連休。「そういえば、ペルセに星が流れる頃…」と、今年の状況を確認したら、明日の夜から未明にかけて都合が良さそうだ。
極大が午後3時じゃ話にならないけれど、とにかく極大前ならそれなりに見られるはず。
 寝苦しいから、ちょうどいいかな。

 今日はなぜだか、昔読んだ天文学関係の書物を書いた人に触れたくて、Wikipedia巡りをした。日本の天文学者は生まれた年ごとにまとめてあるが、意外にも1900、1920年生まれの学者の名前をよく目にしていたことに気づいた。
 通信高校講座の地学で天文分野を担当されたいた小尾信爾、古天文学の本が書庫にあったと思う古在由秀、富田弘一郎、広瀬秀雄、小田稔、「はじめての天文学」の鈴木敬信、宮本正太郎、村山定男、ちょっと新しくて1930年代の森本雅樹(以上敬称略)など。

 読んでいたのは中学から高校にかけてなので、35年ほど前になるか。
 亡くなっておられた人もいて残念に思う一方、まだ存命?!と驚く人もいる。
 主なくとも残るHPなど見て、何となく不思議な気持ちになったり。
 そんな中で、私が星の世界に興味を持つことになった「池谷・関彗星」の発見者関勉さんを検索したら、ご自身のHPがヒットした。

 ご存命か。ていうか、いくつだ?この人。などと思いながら、HPの中のエッセイを読む。相変わらず、文章のうまい人だなぁ。ところどころ変換ミスやタイプミスはあるけれど、文章はやっぱりおもしろい。
 私自身、元々興味があったのは星空ではなく、南極越冬隊の話しだった。
 タロ・ジロの話でもなく、単にオーロラの見える氷の大陸の本が読みたかったのだが、
小学校の図書室にあるはずなのに、その本はいつも貸し出されていて、仕方ないから同じシリーズの「星の狩人」という本を手にとって、越冬隊の本が戻るのを待った。結局、関さんの書いた子ども向けのその本が私の心をとらえてしまった。

 コメットハンターとして有名な彼の彗星発見記だけれど、子供が読んでもその苦労はひしひしと伝わってくる。ものぐさな私に、コメットハンターが向かないのはすぐわかった。何が私の心をとらえたかといえば、そこに描かれる真っ暗な夜空だった。恐がりの私にとって、暗闇は眠っている間にやり過ごしたい存在なのだが、そこにきらびやかな光がちりばめられているとなると話は別である。
 その頃から、人の目線に広がる暗闇は怖いけれど、天蓋の暗闇は最も好きなものになってしまった。
 今再び、彼の文章の虜になっている。
 やっぱりおもしろい。そして、そこに描かれる空は、真っ暗だった。


 頼むべき人工光のない暗闇で、変わらぬ星に向かい合っていたい。
 やがてそのまま土に還るもいい。
 星の流れる頃に、久しぶりに、空に触れてみたいと思った。
 子ども達が大きくなって、私は少し子どもに戻ったのかもしれない。




2015年3月21日土曜日

かんながけ

 先週のこと。
 まな板がどうにもこうにも汚くなって、削ることにした。
 以前、裏の大工さんにお願いしたら、本体があまり良くない状態と言われたのだが、とりあえず愛着があるし、削れるだけ削ってみようと。薄くなったって構わないやと、自分で削ることにした。
 
 まずは、ネットでどんなものが売られているかチェック。値段とコメントを適当に頭に入れてホームセンターへ。アマゾンで売ってるのと同じ物が有り、値段も変わらなかったので、大きさの異なるそれらを持ち比べ、一番手になじむ物を入手した。

 湿気と包丁でぼろぼろになったまな板の表面は、やっぱり削りにくかった。
 その上、私はかんなを触ったことがない。
 見かねた次男が、「刃の出し方が違う」といじくってくれたのだが、「学校のと違う」と言って、上手くいかないようなので、壊す前に返してもらった。You Tubeで刃の出し方を見て、何とか調整。
 よしよし。
  最初はもの凄い音を立てて、厚削り節のような木くずが出ていたのだが、調整後は花鰹のような削りカスが出てきた。
 流しでショリショリと削る。テーブルの上でやってた時は腕だけで削ってたけど、やっぱりまな板を支えてくれる物(流しの縁)があると、 体全体で削れるから楽・・・当たり前か。

 多少、刃が刺さった後は残る物の、表面がきれいになり、厳密に言えば、少々段もあるけれどきれいになったので、小口も削る。
 ここはほんとに水がたまりやすいのか浸みやすいのか、ぼろぼろになっている。
 なかなか進まないので、再度刃を調整して、少し厚く削り、概ねきれいになったら、刃を薄くして仕上げ。
 面取りもした。
 素人がやってるから(初めてだし)、お世辞にもきれいとは言えないけれど、まぁ良しとしよう。

 今日は天気がいいから陰干しをして、サンドペーパーで表面を整えてみようかな。
 薄くはなったけれど、まな板立てに入るようになったし(厚すぎて入らなかった)、使えなくなるまで削って、大事に使おう。

 材は、エゾノバッコヤナギ。










 

2015年3月5日木曜日

 通勤路に、河口付近の橋がある。川は東に向かって流れ太平洋に注ぎ、近辺には貨物の積み出し港や、漁港、そして海水浴場がある。
 仕事帰りに、その橋で月に出くわすことがある。夕方6時前後に通るので、大抵満月辺り。日の短い冬場は真っ暗な中に煌々として浮かび、海と川に月の道を作っていた。3月に入ると急激に日が延び、今はペールブルーの空に、薄淡い金糸で作ったぼんぼりのように、儚げに浮かぶ。

 冬の豪華絢爛、華やかな月も良いが、より心惹かれるのは、薄ぼんやりとした月。少し欠けた月が、ドライアイスのような雲の向こうでたたずむ姿は、冷たいほどに清楚なのに、光の裳裾から何とも言えぬ艶やかさがこぼれるし、春霞に包まれた姿はほんの少し寂しげなのに、閉ざされた闇を無心に照らす。
 40年近く空を見上げてきて、最後に残るのは、やはり月。四季それぞれに、刻それぞれに、仰ぎ見る者の齢それぞれに、数限りない顔を見せる月。それとて、永遠にこちら側だけ。

 松林を過ぎて、飛び込んでくるその姿。海の上から、海面高く喫水線の見える貨物船の上、建ち並ぶ倉庫の上、電柱と電線の陰を細く見せ、世界を支配しそうなくらいに大きな月が、フロントガラスの枠を忘れさせる。
 ・・・あぁ、でも、ハンドルを握っているのを忘れてはいけない・・・。